<「する共感」と「示す共感」に分けて考えてみると>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「共感」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
◆「その気持ち、わかるよ」という「共感」
「『その気持ち、わかるよ』という『共感を相手に伝える行為』は、本人が本当に共感しているかどうかとは別問題」
という意見がありました。
この部分は、共感を考えるにあたって大切な点であると思いました。
「スキルとしての共感力」は、相手の気持ちを読み取って、賛同し、それを伝えるというコミュニケーションのやり方。
それは前半に推察した共感の本質であるところの、「相手の気持ちと同じ気持ちになる」とはちょっと違うんですね。
後者が「共感する」だとすると、前者は「共感を使う」という感じでしょうか。
◆「共感」は生まれつきの能力であるのか?
「共感しすぎる人、共感できない人がいて、共感力は伸ばすことはできないのか?」
という問いがありました。
先ほどの話とも重なるところがありますが、「共感」の使い方によって答えも異なってくるように思います。
共感をスキルとして使うのであれば、共感力を高めることはできるような気がします。
しかし、共感しすぎる人と、まったく共感することができない人の差は、ある程度生まれ持った能力であるか、特徴的に身につけてしまうものだと思います。
共感しすぎて精神的に疲れてしまう人や、サイコパスと呼ばれるようなものもあります。
子どもが、他人や動物に対して、かわいそうに思ったり、一緒に喜んだり悲しんだりするのを見て「子どもは純粋だなぁ」と感じるのは、子どものこうした「共感する力」を見ていて、
一方で、大人になったら、そういう共感する力は鈍感になっていくから、共感というのは衰えるとも考えられないか、
という意見もありました。
確かになるほどな意見なのですが、ではどうして大人になると共感力が鈍磨するのでしょうか、という問いが起こり、少しこの話題について盛り上がりました。
◆ただ、共感してほしいだけ、という欲求
恋人同士の会話などで、悩みや愚痴を聞いていて、それに対してアドバイスをしたら、「そういうのは求めていない、ただ共感してほしいだけ」という、コミュニケーション上のすれ違いはあるある話としてよく聞きます。
ここから、共感=「賛成」なのか?とか、
「あるある」=共感なのか?とか、
「かわいそう」=共感なのか?とか、
共感を別な言葉で言い換えてみて、検討していました。
また、「共感してほしい」欲求についても、少し話し合われました。
◆終わりです。
哲学カフェは2時間が来たら終わりです。話がまとまっていなくても終わります。残りは個々のお土産にもなります。
最後には、「共感力というスキルは、AIでも身につけることが出来るのでは?」という興味深い意見も出てきました。
今回は、共感を「する共感」と「示す共感」に分けて考えてみてから、一気に深まっていった、哲学カフェとして、なかなか楽しい展開になったかなぁと思います。
以上で、今回のオンライン哲学カフェ「共感」のレポートを終わりたいと思います。ありがとうございました。
では、また!