<欲望を追求するよりも、苦痛を軽減することに注力する>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
今日は、この本の続きを書いていきたいと思います。
前回の記事はこちら。
◆感想続き
ショーペンハウアーは、「欲望を否定する」という逆転の発想で、真の幸福を得ることができる、と考えました。
そして、この本の後半部分には、「どういうことに気を付けていけばいい?」という指針や、「では、どうやって?」という実践について書かれています。
印象に残ったことは、
より多くの幸福(快楽)を求めるのではなく、「できるだけ」苦しみを少なくすることと解釈する
という箇所です。
食欲や睡眠欲、性欲などは、ある程度追求しても、人間が受け止めきれる限度というものがありますが、一方でお金(貯金通帳の数字とか)や、地位や名誉、評価などは追求しても際限がありません。
それよりも、苦痛を減らし、心穏やかに過ごすことに注力することで、大きくはないけれど、持続的な幸福が得られるということです。
そのために、ショーペンハウアーは、
財産やイメージなどの「外面から来る富」よりも、人柄だとか、自分で考える力のような、「内面の富」を重視すべきである、
と言いました。
特に、年を取ってくると、欲望を追求するのもいいのですが、そのぶん、疲れますしね。
最後に、筆者はこのように続けています。
ショーペンハウアー哲学の立場からすれば、歴史を歩んでいるはずの人間もみな、「生きようとする意志」に支配されていて、その意志にはそもそも目的地などない。
「歴史的なもの」は、「生きようとする意志」が目的もなく生み出した「迷妄」に過ぎない。
ここでいう「生きようとする意志」とは、「欲望」と言い換えることができます。
私たちが生きる社会に存在する「資本主義(=成長)」というシステムだけでなく、「先祖からのバトンを受け継がなければならない」だとか、「美しい地球を次世代に受け継ごう」だとかいう価値観に関しても同じことが言えます。
そもそも自分たちがいま生きている理由など無いと考えれば、歴史的な価値観さえ、自分の解釈次第だということになるので、そこまで縛られなくてもいいんじゃないか、もうちょっと楽に考えようよ、ということができます。
こう考えていくことが「自由」であって、そこから再スタートすれば、一度否定した欲望も、「ほんとうにしたいことは何か」というふうに肯定していけるのではないでしょうか。
そうすることで、欲望にただ「動かされている」のではなく、欲望を欲望だと認識したうえでうまく「付き合って」生きていけるのではないかと思いました。
簡単ですが以上で、「ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜く」の記事を終えたいと思います。
ありがとうございました。
では、また!