<普段の仕事は何故偽善と言わないのか?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「偽善」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
◆有名人の寄付行為
有名人の寄付行為を「売名行為」だと批判する人の話題になりました。
それは、行為者と受益者だけでない「第三者」による批判であって、こういう例は確かによくありますよね。
ただそこには、「嫉妬心」も含まれている、という意見もありました。
有名人のように多額の寄付を行うことができない自分の自尊心を補うために相手を貶めるという構図になるでしょうか。
◆「偽善」が邪魔をする
「むしろ『偽善』という考えが邪魔をして行為を躊躇することがある。」
という意見がありました。
「やらない善よりもやる偽善」という言葉も出てきました。
この言葉はちょっと難しくて、前提の偽善が「食い違うニーズの押し付け」を批判しているのか、「下心があっても相手の求めるものを実行する」かによって、意味合いが全く違ってくるからです。
◆ふるさと納税による「偽善」
ふるさと納税の話題が出てきて、「偽善と感じる」という意見がありました。
その方は、「ふるさと納税」というシステムに乗っかって、自分でよく考えないまま行っているのはどうも好きになれない、と説明してくださいましたが、ようは、やる側の意志を問うているということなのかもしれません。
逆に、自分の行為が偽善かどうか、そこまで考えて行動を躊躇するのは、ある意味真面目では?という印象的な意見もありました。
◆改めて、「善」を問う
この辺で、「善」あるいは「善意」とは何ぞやという問いに立ち返ってみる流れになったように感じます。
「普段の自分たちの仕事は、仕事をしながら社会貢献をしている、と同時に給料を得るためでもある、これは偽善ではないのか?」
という問いがあって、それに対する考察は、
「仕事に対して、善かどうかを考えていないから、偽善とも思わない」というものでした。
むしろ結果は関係なくて、本人が良く考えて「善かれと思って」行動することが善であり、結果、相手のニーズと一致するか、食い違うかは別問題だという意見がありました。
◆「偽善」と「悪」のボーダーライン
これも興味深いトピックでした。
「偽善」が度を超すと「詐欺」になるのでしょうか。
怪しい宗教に財産を取られても、それがお互いに「善意」であってお互いに満足する結果が得られる可能性もありますが、やる本人がお金を取ってやろうという意思があるなら「偽善ではなく」「悪」だろう、という意見がありました。
◆終わりです。
哲学カフェは2時間が来たら終わりです。話がまとまっていなくても終わります。残りは皆さんのお土産にもなります。
今回は、まず「偽善」の使い方をしっかりと考えるところから、具体的に言うと本人の意志(下心)の問題か、相手のニーズ(結果)の問題なのかということですが、そこから入ったことが良かったのかなと思います。
そうすることで、後半のいろんな広がりに対しての見解の食い違いを、「なぜ食い違うのか」考えながら進めることができました。
そしてこの「偽善」というテーマが、やる前の予想通りかなり手ごわかったことで、その分よけいに哲学を楽しむことができました。
以上で、オンライン哲学カフェ「偽善」の振り返りを終わりたいと思います。
では、また!