<下心とありがた迷惑>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
2020年より主にオンラインの場に移し、「オンライン哲学カフェ」として楽しんでおります。(※今のところ、クローズドでの開催です)
今回は、第89回開催になります。
前回の第88回開催の記事はこちらになります。
◆「哲学カフェ」とは?
哲学カフェとは、おもに身近なことがらについてテーマを1つ決め、それについてみんなで自由に意見を出し合う対話の場です。
「哲学」と書いていますが、ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話はほとんどしません。
私たちの哲学カフェで扱っているテーマは、「『普通』ってどういうこと?」だとか、「『自己責任』って結局何なの?」だとか、身近にありながら、答えがなかったり、人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えたりあまりしない話題について、じっくり語り合っています。
そうすることによって、「あたりまえ」だったことに新しい側面を発見し、考え方・生き方に変化が起こることを楽しんでいければいいな、と考えています。
当哲学カフェはいわば「日常生活を哲学する」ことを目指しています。
◆「Zoom」を使っています
今回も、「Zoom」を使用。
「Zoom」はすっかりおなじみですがとても使いやすいオンライン会議アプリです。
主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。
◆この日のテーマ
この日の参加者は7名(「聞き専」含む)。時間は2時間です。
オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。
しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。
今回は、いつも通りひじき氏が進行役、私ちくわは書記役を担当しました。
この日のテーマも、メンバーの推薦により選ばれた
「偽善」
です。
寄付や奉仕活動、社会に対して善いと思うことをしたのに、「偽善だ、売名行為だ」ということがあります。
「善」に「偽」がつくってどういうことでしょう?
偽善とはどういった場合に成り立つのでしょう。
それは誰が評価すること?本人or相手or第三者?
けっこう奥が深そうなこのテーマ。
では、哲学カフェ、スタートします。
◆「下心」と「ありがた迷惑」
いつも恒例となりました、具体例から入っていきます。
「偽善」というのは、ふだんどういう使い方をしているでしょう。
いくつかの具体例が出てきました。
①災害の被災地に対して千羽鶴を送ること
②動画撮影しながら被災地でボランティア
③親が子供の部屋を勝手に片づける
④ボランティアでポイントが貯まる
⑤ふるさと納税で自治体支援
特徴的に思えたのが、①や③の「ありがた迷惑」と思われる行為です。本人が良かれと思って、相手が嫌がるというパターン。
もうひとつが、②のパターンで、「善いこと」を行いはしているのですが、自分が褒められたいという「下心」が見え見えなパターンです。
◆「偽善」が成立するためには?
そもそも「偽善」というのは、何らかの行動に対する、誰かの評価です。
では、どういった場合、「偽善」となるのでしょうか。
具体例の「ありがた迷惑」とか「下心」をヒントに対話は進んでいきます。
論点となったのは、行為者になんらかの「下心」が入っているか、そしてもうひとつは、受け手が迷惑かどうか、というところです。
「ありがた迷惑」のパターンは、偽善というより単なる「ニーズの食い違い」ではないか、という意見があり、
自分も「偽善」といえば、「下心」のパターンがしっくりくるなぁと感じたのですが、
行為者の下心のある/なしと、受け手のありがたい/迷惑にわけて、マトリックスを作ってみたらどうだろう、とも思いましたが、おそらく、「偽善」は行為者視点によって、「下心」があるかどうかが重要な基準になりそうです。
◆下心とは?
これまで「下心」と言ってきましたが、下心とは、行為者の見返りへの期待、と言い換えられて、それがあるかどうか、ということになります。
「行為者にとって、見返りがない、むしろしんどさ(不利益)があるぐらいのほうが善行だと思う」
という意見がありましたが、実際そういうイメージは確かにあります。
「でも、そうやっていくと、ほとんどすべての『善い行い』は偽善にならないか?」という意見もありました。
感謝・賞賛だけでなく、自己満足(気持ち良さ)をどこかで求めていて、それが皆無で、というのは確かにあまりないような気がします。
◆有名人の寄付行為
有名人の寄付行為を「売名行為」だと批判する人の話題になりました。
それは、行為者と受益者だけでない「第三者」による批判であって、こういう例は確かによくありますよね。
哲学カフェはまだまだ続きますが、長くなってきましたので、続きは日を改めて書いていきたいと思います。
では、また!