<そもそも刷り込みは解消せねばならないものなのか>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
今日は、先日参加した「こうべふらんす哲学カフェ」のレポートの続きを書いていきたいと思います。昨日の記事はこちら。
◆「なぜ、刷り込みが起きるのか」続き
今回のテーマは、「なぜ刷り込みが起きるのか」です。
副題が、「刷り込まれたものはどのように解消できるのか」とされていました。
前半には、「刷り込み」という言葉の意味についておもに話し合われたかと思います。
刷り込みは、あることがらに対し、正しさなどの判断を、否定しにくくなっている状態ということもできます。
金やダイヤモンドを見て、「貴重だ」「欲しい」と感じる気持ちをなかなか否定できません。
後半になると、「なぜ刷り込みが起きるのか」について、進んでいきました。
「刷り込み」という言葉が持っているイメージとして、「繰り返し」というのがあると思います。
占い師を信じるということを例に取ると、その人の言うことがことごとく当てはまっていたり、予言の結果が合っていたりすると、その占い師のことを信じてしまうし、占いや予言そのものを信じるということにもなります。
「神のおぼしめし」は、最強の刷り込みである、という意見がありました。どんなにわからないことでも、それは神のおぼしめしだから、と言われるとどこまでいっても否定することができないからです。
そうやってその人の「当たり前」になっていく刷り込みですが、最初の問いにある
「刷り込まれたものはどのように解消できるのか」にここで立ち返るとどうだったでしょう。
ここまでくると、「刷り込みって、解消しなければいけないのか?」という問いが逆に生まれてきます。
そうすると「解消されなければいけない刷り込みとはどういうことか」について考えないといけなくなります。
「刷り込み」は本来親についていくヒナ鶏の言葉としてあるものですが、慣用としての「刷り込み」は「止められない習慣(の前の価値判断)」のような、どこかネガティブな意味で使われることが多いということでしょうか。
例えば、「時間を大切にしなければならない」という価値観は現代人の刷り込みだと思います。動物に取って時間を大切にしようという価値観は絶対的ではないはずです。
しかしこれが無いと現代の人類の繁栄は違ったものになったと思ういっぽうで、同時に現代の多忙と疲弊を生み出しているともいえます。
ある新興宗教を信じるのは個人の自由ですが、そのために家の財産をなげうったり、他人に高い壺を買わせたりする実害があると「刷り込みを解消せねばならない」となります。
「どうやって解消されるのか」の議論は、外の世界に触れるとか、多様な意見を取り入れるとか、科学的に分析するとか、そういう社会的なことになってくるように思いますし、じっさいそういう話が出てきました。
それよりも興味が湧いたのは、人に言われるまで気付かなかった「気付いていない」刷り込みと、占いなどの「気付いているが、信じようとする」刷り込みがあるということでした。
といったところで、2時間が過ぎて、哲学カフェは終わりです。
今回の「刷り込み」のレポートもこの辺で終わります。
主催のjuperyさん、進行のひじきさん、参加されたメンバーの方々、こんかいも楽しい哲学の時間をありがとうございました。
では、また!