<戦乱の世に感じた正義とは>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
今日は、この本の続きを書いていきたいと思います。
前回の記事はこちら。
今日は、「ネタバレ有り」で感想を書いていきたいと思います。
重要な部分を明らかにしてしまうので、本作を読んでみたいという方は、このブログ内容を読まずに、本を読んでください。
◆感想続き
ネタバレ感想を書こうと思ったのですが、思ったより前回の記事でほとんど主要な感想を書いてしまったため、今回はそんなに書くことがないということに気付いてしまいました。
なので、主人公の飛田匡介と、ライバル役の国友彦九郎についての感想を書いていきたいと思います。
「塞王の楯」の文字通り、飛田屋の石積みは「楯」です。
対して、国友の鉄砲は「矛」となります。
作中に、それぞれが目指している理想の「楯」と「矛」について語られています。
理想の「楯」は、守りが堅く、誰も攻めてこない城を作ること。そうして、戦いのない世の中にしたい、という考え方です。
対して理想の「矛」は、強すぎて、誰も通ことができない武器を作ること。究極まで武器を強くしてしまえば、世界を滅ぼしかねないので誰も使えず、やがて戦いのない世の中にしたい、という発想です。
戦いをなくすために戦いの道具を高める、というのは、いささか矛盾した話(矛盾!)ではあるのですが、そこがまた読者を考えさせるところではありますよね。
最終的に、大津城にてこの2人は、守りの飛田屋、攻め手の国友に分かれて、敵同士相まみえることになります。
バトルの勝敗までは書きませんが、この本によって感じたメッセージは、戦乱の世ということで、戦いは避けられない中、こうだったらいいな、という理想形に近いものだったと思います。
というのは、一番大切なことは、「戦争は武士のものであって、民を巻き込んではならない」というひとつの「正義」を守ろうとしたことでした。
最初に匡介が経験した、一乗谷城で信長勢にやられた出来事、ああいうことを繰り返してはならないという意思です。
匡介の依頼者となった大津城主の京極高次は作中ではこれを最後まで貫いた人物だったので、人々並びに読者のこころを捉えたのだと思います。
そして、攻め手のほうでも、国友彦九郎と一緒に戦うことになる立花宗茂という軍人がそれを体現していて、こちらも胸を打つものでした。
戦局が膠着し、互いに追い詰められていく中で、民を危険にさらさないという決断を最後まで貫かせた京極高次と立花宗茂のキャラクターがこの物語に花を添えていました。
そこには、理想と現実の中で苦悩しながら成長していく飛田匡介と、そのライバル国友彦九郎をどこかスポーツマンシップのような爽やかな感覚を得たような気もしました。
実際、この戦いの終わりに関ヶ原決戦があり、その後300年の泰平となるわけなので、お城や鉄砲の技術発展が停滞し、実践向きというより美術的になってしまうのが、どこか残念な気もしますが、
今後、お城を訪問した時には石垣に注目してみたくなりました。
感想は以上で終わります。どうもありがとうございました。
では、また!