<考えてみれば、普段でもそうなんですよね。>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
着々と回を重ね、今回が8回目となります。
第7回「トロッコ問題」の模様はこちら。
◆今回も「Zoom」を使いました
今回も前回同様、「Zoom」を使用。
「Zoom」とはオンライン会議アプリで、「skype」をイメージしていただくと大体そんな感じで、とても使いやすいテレビ会議アプリです。
主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。
音質もクリアでノイズやハウリングもほとんどなく、良いですよ。
◆この日のテーマは「明日死ぬかもしれません」
この日の参加者は9名。時間は2時間です。
オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。
しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。
(画面を見ていると誰がしゃべったか大体わかるんです)
今回は都合もあって、進行役は部長のひじきさんではなく、(初めて)別のメンバー方にお願いし、私はいつもどおり書記を務めさせていただきました。
進行役が変わるのも、新鮮で楽しかったです!
この日のテーマも、開始前にメンバーから提案のあったもので、こちらです。
今日は 「明日死ぬかもしれません」
映画にもなりそうなこのタイトル、どういう展開になったでしょうか?
出てきた意見をもとに、自分の感想を交えながら書いていきたいと思います。
◆明日死ぬ「かもしれない」と、明日「確実に死にます」
本日のお題の面白いところが、明日死ぬ「かもしれません」としていること。
かもしれません、ということは、「死なないかもしれません」ともいえます。
明日交通事故で死ぬかもしれないし、天災で突然死んでしまうかもしれません。
そういう意味では、実は普段の私たちが「明日死ぬかもしれません」の状態であると言えます。
「普段は忙しくしていて、明日死ぬかもなんてことを考えない」
という意見がありましたが、だいたいそんな日々であろうと思います。
では、どういう時に死を感じるのでしょう?
こんな問いから緩やかに哲学カフェはスタートしていきます。
多かったのが、身近な人の死に触れた時、あるいは、死を題材にした小説や映画を鑑賞したとき。
私も、このお題からまっ先に思い浮かんだのは、「イキガミ」でした。
この手紙が届けられた若者は、24時間以内に死ぬ。
手紙を受け取った若者が、残されたわずかな人生をどうとらえるのか?
退廃的でもういいやってなりつつも、最後は自分に正直に、大切なものを見つける、っていう話。
でもこれは、明日死ぬ「かもしれません」ではなくて、明日「確実に死にます」という思考実験的な要素が強いですね。
実際私が「イキガミ」をもらったら、死ぬまでに何しよう?って考えてみると、まず会社には行かないとして(笑)、じゃあ朝から何するか、すぐには思い浮かばないんですね。
仕事はもちろん今日だけのためにしてないし、本を読むということすら明日も読むことを前提に読んでるし、そう考えると私の日々の行動のほとんどは明日もある事を前提にしていることを思い知らされます。
もうひとつ思い出したのは、他メンバーからも出てきましたが、「夜と霧」。
強制収容所で、もう出ることができない、いつ出られるかもわからない、という明日への希望がまったくない環境に置かれた時点で、生きる意欲を失うんです。
ちょっと前置きが長くなりましたが、明日死ぬ「かもしれない」に戻りますね。
◆自分が死ぬんだという実感
「他人が死ぬことで、自分も死ぬんだと理解はしている。でも、どうしても自分が死ぬという実感が持てない。」
という印象的な意見がありました。
確かにそうです。「公正世界仮説」「正常性バイアス」という単語も出てきましたが、
「自分が今まで死んでいないから、これからも死なないだろう」という思い込みですね。確かにそれはあります。なるほどです。
でも、もっと何か決定的な理由があるんじゃないか、という気が私はしています。
「自分が死んだらどうなるの?」というのは誰もが子供の頃に一度は考えたことがあるでしょう。
でも、どれだけ考えても答えは出ないんですよね。だって、死んだ後に「私」はいないから、どんな状態でどう感じるか、その感じる自分自体が「無い」ですからね。自分が死んだ瞬間、自分は存在しなくなりますからね。
他人が死ぬというのはわかる。それは事実としてあるから。でも自分が死ぬというのはどういうことかというのはどこまでいっても「わからない、想像できない」んだと思います。
◆死ぬ前に、後悔
「死ぬ前に後悔するの嫌だから、できるだけ目の前の事をためらわない」
このような意見が出てきて、あー私もあると思いましたし、多くの人がそう思うでしょう。
「限りある人生、無駄に過ごすのは人生もったいない」
哲学カフェはこの方向に展開していくのですが、続きは日を改めて書かせていただきたいと思います。
では、また!