みんなの日常哲学カフェ ~哲学カフェとか読書とか

哲学カフェの記録を中心に、読書記事も書いています

旧:ちくわのぴょんぴょん読書日記

オンライン哲学カフェ第40回「怒り」①

<怒りは「理想と現実とのギャップ」>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。

今回は第40回となります。

  

前回の第39回「反省」の模様はこちら。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

◆「哲学カフェ」とは?

哲学カフェとは、おもに身近なことがらについてテーマを1つ決め、それについてみんなで自由に意見を出し合う対話の場です。

「哲学」と書いていますが、ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話はほとんどしません。

私たちの哲学カフェで扱っているテーマは、「『普通』ってどういうこと?」だとか、「『自己責任』って結局何なの?」だとか、身近にありながら、答えがなかったり、人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えたりあまりしない話題について、じっくり語り合っています。

当哲学カフェはいわば「日常生活を哲学する」ことを目指しています(今のところ)。

 

◆今回も「Zoom」を使いました

今回も前回同様、「Zoom」を使用。

「Zoom」とはオンライン会議アプリで、「skype」をイメージしていただくと大体そんな感じで、とても使いやすいテレビ会議アプリです。

 

主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。

  

◆この日のテーマは「怒り」

この日の参加者はのべ5名。時間は2時間です。

 

オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。

しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。

(画面を見ていると誰がしゃべったか大体わかるんです)

 

今回も、いつもの通り、ひじき部長が進行役、私が書記役で進めていきました。

 

この日のテーマも、メンバーの推薦により選ばれた

 「怒り」

です。

 

怒りは日常ありふれた感情ですが、とかく邪魔な感情としてとらえられがちです。怒りとは、いったいどのようなもので、私たちとどう関わり合っていくものなのでしょうか。

 

では、実際出てきた意見と感想を簡単に書いていきたいと思います。

 

◆良い「怒り」、悪い「怒り」とは?

まずはこんな問いから。

哲学カフェでは、いつもこういう風に問いが出ると、皆さん身構えてしまいます。

「良い」「悪い」を語るときは、「何にとっての良い・悪い」かという前提を問わないといけなくなるからです。

ここでは「後々の自分が『得した』と思うか、『損した』と思うか」という感じでしょうかね。(まぁ、得した・損したも何に対してを検討する必要があるかと思いますが、いったんこれで)

 

良い怒りとして思いつくのが「社会を変える怒り」になります。

誰かを差別したり抑圧したり、そんな政治に対し怒った市民が、賛同者と一緒になって運動し、社会を刷新していく。原動力はいつも「怒り」にあるようです。

 

いっぽうで、悪い怒りとしては、「ついカッとなって、言わなくていいことを言ってしまった」というようなのが思いつきます。

友達関係の修復に時間がかかったり、ビジネス上の信用を失ってしまうといった実害が生じてしまいます。

「ついカッとなって、相手を殴ってしまった」なんてのは、犯罪にもなってしまいますし。

「夜の校舎、窓ガラス壊して回る」のは抑圧された少年の怒りの発露手段ですが、退学になってしまう恐れがあります。

 

ここで、「それは、行動の良し悪しについての判断であって、その根本となる『怒り』の感情については、変わらないのでは?」というような気がしてきます。

 

すなわち怒りという感情が先にあって、行動が後に来る。私たちはその行動によって、怒りの良し悪しを判断しているだけではないか、という仮説です。

 

そのためにはいったん「良し悪し」は横に置いて、もう少し「怒り」というもの自体について考えてみよう、ということになりました。

 

◆感情が先か、目的が先か

怒りの原因は何かに対する「不満」

という意見がメンバーから出てきました。確かにそうすると、社会を変える運動のところは説明がつきやすいです。

抑圧されている状態、認められない状態。

 

では、「ついカッとなって・・・」は不満なのでしょうか?

もっと反射的なもの、のような気がします。

例えば、気にしている体型や毛髪の量についてからかわれたときは、反射的にカッとなります。

「からかうのをやめさせたい」という目的があって、怒ったというふうにも捉えられますが、それよりも、「自尊感情を傷つけられた」から、反射的にカッとなった、という言い方のほうがしっくりくるような気もします。

 

怒りは「理想と現実とのギャップ」

という意見もでてきました。なるほどこれもありますね。

約束の時間ギリギリなのに、電車が遅れている。トラブルが重なる。

私たちは「うまくいかない」ことに対して怒ってしまいます。

そこに、もし「うまくいく(理想)」という前提が無ければ、怒る原因がないですからね。

 

アドラーの本では、「感情はすべて目的を持っている」という言葉があったように思いますが、怒りに関していうと、感情が先か、目的が先かでいうと、まぁ、どっちもあるよね、っていう感想を持ちました。

 

◆自分が傷つけられていないのに、怒るのはどういうこと?

自分が傷つけられたり、からかわれたりしたら怒るのはわかりますが、

自分に直接関係のないのに、例えば芸能人が不倫したとか、ある企業が粉飾決算をしたとか、についても怒ってしまうのはどうして?

という問いがありました。

これについては少し盛り上がりました。

 

哲学カフェはまだまだ続きますが、いったん時間となりましたので、続きは日を改めて。

 

では、また! 

 

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