<「親ガチャ」をニュートラルに考える>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している読書会「彩ふ読書会」の、参加メンバー同士でサークル活動として始めた「哲学カフェ」。
今日は先日の続きで
「親ガチャ」
について書いていきたいと思います。
先日の内容はこちら。
前回書いた内容としては、以下のようなものです。
・自分は「親ガチャ」に当たったか、ハズレたか。
・「親ガチャ」にハズレるとは、どういうことか。
・親と子の関係性の変化に見る「親ガチャ」という発想。
・自己責任論の高まりから発する「親ガチャ」。
◆「親ガチャ」をポジティブにとらえてみる
「親ガチャは社会問題を顕在化している意味で、ポジティブにとらえられないか」
という意見がありました。
なるほどそういう考え方もあるのか、と感じました。
確かに、「頑張ればなんとかなる」「結果が出ていないのは自分のせい」的な自己責任論で生きづらさを感じている人が多くなっているだろう昨今です。
地域社会や親子・親戚関係が希薄になりがちで、なかなか助けを求めにくい、理解もされにくい、そんな中、
「親ガチャ」という考え方を持つことが救いにもなるでしょうし、そのような言葉が流行することによって、政治が社会が格差・貧困の問題に取り組むきっかけになるだろう、という意見でした。
◆「子ガチャ」という言葉
「子ガチャ」という言葉があることも知りました。
自分ならまだしも、自分の子どもに「ガチャ」っていうのは、ちょっと気分の良くない感じがします。
こちらも「親ガチャ」同様、やっぱりハズレだと思ったときに発するでしょうから、言われた子どもは、ギャグだとしてもちょっとなぁ。
◆個人的感想「しょせん親ガチャ」という前提を受け入れる
ここからは個人的感想ですが、自分は「親ガチャ」という言葉にはそこまで嫌悪感は無くて、もっとニュートラルに、自分たちは所詮みんな「親ガチャ」だという考えでいるような気がしています。
なんだかよくわからないままこの世に産み落とされて、たまたま細菌やミミズに生まれず人間として生まれ、うまくいけば80年ほど生きて死んでいく、ただそれだけの存在です。
容姿や能力を「親のせい」と感じるのなら、その親も「親ガチャ」の産物なので、親に文句を言っても仕方がないですし。
愚痴を言いたいのもわかりますが(自分だって言うときもあります)、親を恨んだところで、何も変わらないのであれば、今与えられているこの体と環境で、死ぬまでのあと30年あまりをそれなりに楽しく過ごしていくことを考える以外ないのではと思っています。
最近読んだ「銃・病原菌・鉄」の究極の結論が「生まれた場所がたまたまユーラシアだった」というのが印象的だったことを思い出しました。
まさに壮大な「親ガチャ」の例ですね。
↓その時の記事はこちら
◆終わりです。
「親ガチャ」は多分に社会問題も含んできますので、なかなか重い話になるかともおもいましたが、上手く絡まりながら、色んな所に話が広がっていったかなという印象でした。
以上で今回の哲学カフェ「親ガチャ」のレポートの感想を終わりたいと思います。
では、また!